土山名物 蟹が坂飴

ふるさとを訪ねて

森鴎外と土山宿

 明治大正時代を代表する文豪の一人、森鴎外は明治33年に土山を訪れている。九州小倉で軍医部長をしていた鴎外は東京で開かれる軍医部長会に出席する途中、土山の常明寺を訪れたのである。祖父、白仙の墓参りが目的だった鴎外は土山の常明寺に着くなり、他所人過去帳を見せてもらい、そこに『森白仙、井筒屋にて病死』の文字を見出す。早速土葬されている墓に案内を請い、荒れ果てた荊棘のあいだに墓碑を発見した鴎外は寺に戻って、白仙の墓石を境内に移してほしいと懇願した。その当時の土葬場の情景を鴎外はこう描いている。
「碑の周辺、荒無最も甚しく処々人骨の暴露せるを見ゆ。また竹竿を立てて、上にどくろをかける者あり。」当時の農村風景を彷彿とさせる。
 その夜は仲町の平野屋に投宿。鴎外は主人に尋ねる。「客舎、井筒屋は今もありますか。」主人は答える。「もうすでに廃業してますよ。」
 
 土山が祖父、白仙の終焉の地になったいきさつは?
森家は累代津和野藩の藩医で白仙は11代の藩医にあたる。万延元年(1860年)藩主の参勤交代に随行して江戸へ出向。
翌年4月に任解けて、5月に藩主一行は帰国するが、白仙は健康すぐれず江戸に残り養生。10月ごろ体調も回復したので、二人の従者を伴い江戸を出発、帰国の途に就いたが、土山までの道のり110里。土山宿「井筒屋」に至って、衝心発作に襲われた翌日、帰らぬ人となった。11月7日であった。
遺体は常明寺の土葬場に埋められ、わずかの遺品だけが津和野藩に送られた。これが森家と土山宿との繋がりの第一歩であった。
 明治39年に祖母のきよが他界するが、遺言により遺骨は常明寺に葬られた。続いて母ミネが大正5年に没するが、遺骨は両親の眠る常明寺の境内に埋葬された。
 こうして祖父母と母の墓石3基が常明寺境内に建っていたが、昭和28年に津和野から、3基の墓石を津和野の永明寺に移してほしいとの要望が強く、墓石は土山を離れていった。
今、常明寺には森家の供養塔(昭和63年、建立)があり、そこに3人は静かに眠っている。

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