ふるさとを訪ねて

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追分 辻町
記:高橋慶一氏

御代参街道の起点・辻町は追分の町だった

 『土山宿旅籠、追分屋跡』が辻町に建っている。ここは東海道と御代参街道の追分、即ち分岐点であった。
今、追分屋跡の向かいに二本石の道標が建っているが、1本は天明8年(1807年)のもので「たかのよつぎかんおんみち」と刻まれており永源寺の世継観音への案内道標である。
もう1本は文化4年とあり、日野の豪商中井氏が建立されたものだという。「北国たが街道 ひの八まんみち」と書かれている。 なお、ここには道標がもう一本あったらしい。延享3年(1746年)刊行の『東海道巡覧記』の図会には、雨の辻町の様子が描かれており「北国街道多賀社へ道11里」と刻まれた道標が見えるのである。地域の古老の中には「昭和30年頃までは確か3本あったように思いますよ」とおっしゃる方がおられる。
この1本はどこに消えてしまったのだろうか。
行方不明なのである。
 この街道は、土山宿から笹尾峠・鎌掛・日野・八日市を経て中山道愛知川宿までの10里足らずの脇往還で、その先は多賀大社、北国街道にと繋がっていく。
 御代参街道が脇往還として整備拡張されたのは、寛永17年(1640年)。
春日局が上洛の途次、伊勢両宮へ参詣し、その後鈴鹿峠を越えて土山宿の辻町からは御代参街道を北へ、そして多賀大社へ参詣後中山道を通り京都へ上がったが、当時この道は細くて荒れ果てていたので道路の拡張と修理を行ったとされている。
 それまでの街道には、室町時代後期から修験者の通行を示す板碑が残っていたり、八日市や日野方面の商人の通行記録が在ったりして、早くから間道として利用されていたことが推察される。
 街道の名前の起こりは江戸中期、皇族方が年3回(1月、5月、9月)伊勢神宮と、多賀大社へ代参を立てられ、京から東海道を通って伊勢神宮へ詣で、帰路は土山宿の辻町から右に折れて御代参街道を辿って多賀大社へ参拝した後、中山道を通って京へ戻られたのである。そのようなことを考え合わすと土山宿は、水口・石部の駅より古くから繁盛していたと思われる。